Book Challenge Day 6: Dayanita Shingh, “Museum Bhavan”.

Book Challenge Day 6: Dayanita Shingh, “Museum Bhavan”.
 
I realized that I had known nothing about India when I visited the exhibition “Museum Bhavan” by Dayanita Shingh, a world-renowned woman photographer from India, held at Tokyo Photographic Art Museum in 2017.
 
I particularly enjoyed a series of photographies titled “Myself Mona Ahmed” and “The Third Sex Portfolio”, which focus on Eunuch people.
I was overwhelmed as well as fascinated by how their daily lives were portrayed as powerful and beautiful.
I was very much inspired by Mona, the protagonist of the series “Myself Mona Ahmed”, who, in order to overcome discrimination in Indian society, has established communities for Eunuchs to substitute their real family and supported each other.
 
In connection with Dayanita Shingh’s photography catalogue, I’ve got one more book in my mind to put this book challenge: “The Night Life of Trees” published by Tara Books in India, which publishes illustrated books for children, the stories of which are based on Indian folktales.
I’ve learned that Tara Books hires Indian female artists, who make stories and illustrate them, as well as local craftsmen, who make copies by hand, so that they can support the local community.
Once you get a copy from Tara Books, you will be amazed by the beautiful illustrations and the powerful story produced by Indian female artists!

Book Cover Challenge Day 5:姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』

Book Cover Challenge Day 5:姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』。
「たくましくしなやかに生きる女性が登場する物語」をテーマに7冊の本を紹介しています。
今日は、姫野カオルコさんの『ツ、イ、ラ、ク』です。

それにしても、なんといかがわしいタイトル、なんと卑猥な感じの表紙でしょうか!
そんな我が愚かな先入観によって、長らく手に取らなかったのが、この小説です。

ところが、ふと表紙を開き、冒頭の数ページを読み進めただけで、私は自分の置かれている現実がたちまち背後に遠ざかっていくのを感じ、その物語世界にどっぷりと身も心も浸かってしまったのです。

なぜ、これほどまでに姫野作品にハマってしまったのだろう。要約するならば、女子中学生とその学校の教師の短き恋の話です。そんなたわいもない物語になぜ魅了されたのかと、自分に問うと、ふつふつと湧き上がるのは、語り手という単語です。

この小説は奇妙な語り手によって物語が語り進められます。それは、物語世界の住人として、登場人物に親身になり、寛大な言葉でもって物語を語る人物でありながら、それとは別の、つまり、私たちと同じ現実世界に留まりながら、できうる限り客観的な視座から時に冷徹な眼差しで登場人物の行動を裁断する人物でもあるという、不思議な立ち位置に置かれた語り手なのです。

そうした、全知の語り手のような第三人称でもありつつ、登場人物が語る第一人称の語り手に限りなく近しい立場でもあるという、曖昧な存在の語りに導かれ、私は物語世界が目の前に立ち現れるような臨場感を抱きながらも、いやいや、これは虚構の話なのだという諦めとともに、身を切られるような悲しみを感じて、登場人物の恋のゆくえを追うのでした。

恋ほどに、生きることの充実感を味わうことができると同時に、絶望的な虚しさを感じる体験はないと、思慮の浅い私は思います。
だとしたら、そんな強烈な体験を十代のはじめに体験してしまった女性主人公のその後の人生はどのように展開していくのでしょう。

そのように浅ましい邪推をしてしまう私は、彼女のそれからの人生に何を想定し、期待しているのでしょうか。優しい伴侶?幸せな家庭?可愛げのある子供?素敵な庭のある家?しつけの行き届いた犬?そうした人やものを手に入れたとして、それらは彼女の人生を幸せへと導くのでしょうか。では、そもそも、人の幸せとは何なのでしょう?

そうした私の無知蒙昧を愚弄するかのように、語り手は恋する主人公たちを叱咤し、励まし続けるのです。

恋という、かりそめの時間に代えられるほどの質や量の体験があろうかと、語り手は哀れな恋人たちの愚行を慈しんでいるような気が私にはしてなりません。そればかりか、謎の語り手は、私が、物語の登場人物たちの行末に愚かしくも己の生/性に投影しても、そういうものかもしれないねと、やさしく受け止めてくれるようにも思えるのです。

Book Cover Challenge Day 4:本谷有希子『あの子の考えることは変』

「たくましくしなやかに生きる女性が登場する物語」をテーマに7冊の本を紹介しています。
今日は、本谷有希子さんの『あの子の考えることは変』。
ブックカバーチャレンジは、あれこれ解説を加えてはいけないルールだと知らず、昨日まで長々と書いてきたので、今日は簡潔に。と言っても、長くなるだろうけれど。

「あの子の考えることは変」と、家族や周囲の人たちがため息をつきながら自分のことを話すのを聞きながら生きてきた私は、この本の表紙を見て、自分のことが書かれているのかな?と飛びつき、実際に物語の登場人物の中に自分の分身を見つけました。

それ以来、中毒といえるほどに本谷作品を耽読してきました。どの作品でもすごく変な女性たちが出てきて、周囲に変だと言われていることを薄々感じながらも、変に生きざるをえない生き様がそれはもう変に描かれているのだけれど、その変さに触れ続けていると、あれ?その変さは彼女たちを変だと決めつける周囲や社会の変さなのかもと思えてくるだけでなく、彼女たちの変さが愛おしくてたまらなくなるという、素晴らしく変な物語ばかりなのです。

たった一文の中で、「変」て何回言ったんだ、私。

Book Cover Challenge Day 1:南房総の物語

海女の鈴木直美さんにお声かけいただいたブックカバーチャレンジ。
せっかくなので、鈴木さんに因んだテーマで7冊の本をご紹介しようと思います。すなわち、「たくましくしなやかに生きる女性が登場する物語」。
1日目は、海女の鈴木さんご自身が主人公として登場する物語です。明治大学南房総ゼミの学生が、実際にインタビューをして話を伺い、イルカのようにしなやかで美しい鈴木さんの人生を小説にしました。
鈴木さんの物語のほかにも、南房総ゼミでは、南房総で活動する女性たちのおおらかで力強くも魅力的な人生の物語がいくつも編まれました。
南房総ゼミはどういうわけが毎年女子学生が多め、しかも全員強めなのが特徴なのですが、彼女たちと彼らが卒業してからも、その芯の強さを大切に、南房総の女性たちのようにたくましく生きていってくれることを願っています。
写真にはこれまでのゼミの活動でゼミ生たちがまとめた物語の冊子も合わせて掲載しました。

カオス

60年物の団地に住んでいる。建物と建物の間に作られた公園には、団地が建てられた当初に植えられたと思われる桜や欅、楓などが今や大木となって鬱蒼と枝を繁らせている。
それだけでなく、おそらく団地の住民がこの60年間に自主的に(もしくは勝手に)自分たちの好きな植物を植えてきたようで、団地の敷地内の土のあるところにはみっしりと様々な木々や草花が生えている。
それらがこの時期になると、一斉に薄緑色の若葉を芽吹かせ、それはもう美しいのだ。それは秩序立って整えられた美しさというよりも、緑がうねったり絡まりあったりして形作られるカオスの美しさなのだけれど。
そんな具合なので、団地には定期的に植木屋さんが入って、手入れをしている。定期的というよりも、もしかしたら彼らは木々の合間に定住しているのではないかと思う。それくらい頻繁に植木屋のおじいさん達は団地の敷地内にいて、そこら中で発生しているカオスに取り組んでいる。
きっとおじいさん達は団地が建てられた60年前から木々の手入れをしてきたのだろう。まるで思い人を抱擁するかのようにして、身体を木の幹にぴたりと沿わせ、キスでもするかのように、皺の寄った顔を木の幹に近づけて、葉を刈り取っていく様は、団地の植物たちを愛おしみ、カオスたらんとする彼らの力を抱き留めているように見えるのだ。

Transparent

An awesome drama series!
“Transparent”というアメリカのドラマにどっぷりハマっている。
“Transparent”とは「透明な」とか「率直な」、「素直な」という形容詞であるが、このドラマの場合、その言葉に”trans”な”parent”、つまり「トランスジェンダーの親」という意味が懸けられている。
それがどういうことなのかは、ぜひドラマを観て確認していただきたいのだが、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、民族、宗教、家族のテーマがこれだけ真正面に取り上げられているのに、諧謔的で笑いが止まらない素晴らしいドラマなのだ。
ユダヤ系の家族を中心とする物語であるだけに、当然、第二次世界大戦の話もパーソナル・ヒストリーとして織り込まれている。
日本では、最近でこそ小説や漫画、映画ではジェンダーやセクシュアリティ、歴史を取り上げた作品が作られているけれど、テレビドラマではほとんどないのではないだろうか。
もっとも、ゲイの日常を描いた『きのう何食べた』が話題になったのは記憶に新しいが、これも原作は漫画である。これがレズビアンやバイセクシュアルとなると、日本のドラマではほぼ存在していないかのようであり、トランスに至ってはバラエティ番組の中でのみ生きているかのようである。ビアンも、トランスもゲイもノンケも当たり前の日常を当たり前に送っているのだが。
Netflixでも”Sex Education”や”Pose”など素晴らしいドラマが作られているのだから、もはやそれらを観れば事足りるという時代なのかもしれない。
ちなみに、”Transparent”はAmazonのドラマなので、Amazonプライム会員の私は日本にいる間に全て観終わりたいと、浅ましくも毎日いそいそとAmazonプライムの画面を開いている。(トランスの主役の俳優がセクハラ事件を起こして、シーズン5で製作が終わってしまったのはかえすがえすも残念なことである。)

牡蠣とシャルドネ

ゼミの卒業生が初任給が出たのでと、南三陸の牡蠣を送ってくださった。
なんというありがたいこと。
その牡蠣が新鮮で美味しいこと!さきほどまで海にいたのかなあと想像しては、南三陸の海の豊かさを味わう。
まだ木曜日だというのに、日本の魚に合わせることを考えられた富山のsaysfarm さんのシャルドネを空けてしまった。
牡蠣の潮の香りがシャルドネの樽のミルキーな香りとがまろやかに交わって、スルスルと止まらないのである。
セイズファームさんは、明治大学のある駿河台キャンパスのそばにもサテライトのブドウ園を持っていらっしゃるという革新的なワイナリーで、牡蠣を送ってくださった卒業生たちも受講してくれた昨年の「日本文化論」で課外授業をさせていただいた。
牡蠣とシャルドネを交互に口に流し込んでいたら、すっかり酔っ払ってしまった。
酔いに任せて、我が初任給は何に使ったのかなとつらつらと思い返してみる。誰かに贈り物をした記憶はない。本を買ってもいない。浅はかな人生を恥じ入る夜。
世界といわず、日本といわず、せめて私なんかが関わった若い人々がこれから生きやすい社会になるように、この後の身を尽くすことくらいしかできないよと、もしかしたら今日の自分のことを覚えていないかもしれない明日の愚かな自分に言い聞かせるために書きつけておく。

Vinho Verde

冷蔵庫に残された最後の南房総野菜や卵で、ネギ味噌や、卵と絹さやと木耳の炒め物などを作る。むむ!これは、ポルトガルのにぴったりの料理ではないだろうか。
「今日は昼間も飲んでいましたが、夜もボトルを抜栓してもよいでしょうか?」
頭の中に住まわせているミニチュアの神様にお伺いを立てると、
「いいよ!」
と即答してくださった。
南房総食材の最後の晩餐である。
明日からどうやって生きていこう。

Picnicking at home


南房総の花を眺めながら、自宅にて遠足。
せっかくなので、幼き頃の理想のお弁当を再現してみる。味付け濃いめで、野菜少なめである。
おやつ300円の縛りに対して、駄菓子屋で細々とした菓子を買い集め、10円ずつ刻んでいき、同級生と交換をしたなあなどとどうでもよいことばかり思い出される。
実際には、遠足の途中でバテて、目的地に着いてもお弁当を食べる余力が残っていないほど過酷な体験だったのに。

5月19日

5月19日にオランダに飛ぶ飛行機を予約した。
3月19日に日本に一時帰国してから、2ヶ月ぶりにオランダに戻ることになる。

チケット発券のメールを受け取った途端、体内に溜まっていた澱のようなものがすっと消えてなくなり、身体が軽くなったような気がした。

いつになったらオランダに戻れるのかわからないという先の見えない心配や、戻れるとして日本に家族を残したままで行ってしまってよいものだろうかという罪悪感、自分の身近な生活空間だけでなく、世界全体で生活や人間関係の根本が覆ろうとしているのではないかという不安、そうした様々な感情が体内にどんよりと蓄積して、私の思考や行動を目に見えぬ形で制限していたように思う。

このままだらだらと続くように思えていた時間が、5月19日という日付を境に一度断ち切られるように感じられた。心配も罪悪感も不安もここで一旦切り捨てなければ、私はオランダに飛べないのだ。そんな感傷的な覚悟と同時に、日本の曖昧な自粛の空気から抜け出せるのだという喜びに身が震えた。身勝手なものである。

ヨーロッパでのコロナウィルスの深刻な影響はオランダも例外ではなかった。3月には感染者数や感染に伴う死者数が急増したことにより、ロックダウンが宣言され、生活必需品を扱う商店以外は休業となり、学校はオンラインでの授業が行われ、企業は在宅勤務が主となった。

日本がヨーロッパからの渡航を禁止する二日前に滑り込むようにして東京に戻ってきた私には、戸外で春の到来を楽しむ東京の人々の様子を見るにつけ、オランダの思い切った措置は少々行き過ぎなのではないかと思ったものである。

しかしながら、オランダのICU患者や死者は3月末から着実に減り続けており、昨日の新聞報道によると、コロナウィルスではない患者のICU受け入れがまもなく再開されるそうである。

周りの人たちの様子を伺いつつ曖昧な自粛を続ける日本と、思い切ったロックダウンによって感染の封じ込めがなされつつある合理主義のオランダ。

日本もオランダもコロナ以前の社会には戻れない。そう考える時、どれだけの他者にどれほど寛容になれるのかが、コロナ以後の自分の行動や思考の指針になるような気がしている。きっとオランダで外国人(他者)として生活する中で、私はその指針を何度も思い返すことだろう。