卒業論文発表会

週末、卒論ゼミの卒論発表会をオンラインにて開催。
当初は南房総にて合宿形式で行う予定だったのが、コロナウィルスの影響で急遽変更することに。
四年ゼミ生2人の発表に対して、卒業生7人と社会人3人が参加してくださるという贅沢な時間になる。
初めてのオンライン発表会でうまく行くのか心配もあったのだけれど、気がつけば5時間近くも活発なやり取りがなされて、濃密な議論の時間に。
対面式の集まりでは気づけない発見もあった。他者が実際に目の前にいると、その存在をつい当然のことだと思ってしまう。これがオンラインだと、音や回線が途切れたりして、いつ何時相手との交流が途絶えるのか分からず、不安な気持ちになる。でも、そのことで、他者はいつも当たり前のように存在しているわけではなく、ある日突然いなくなることもあるということ、すなわち、他者存在の不確からしさを実感できるのではないかと思った。次の瞬間に消えてしまうかもしれない相手に向き合い、その気配を感じようと、五感を働かせて相手を思いやり、その安否を気遣うのだ。
何もかもが不安定に見える今の状況の中で、他者への淡い気遣いに満ちた貴重な時間だったように思う。

 

卒業論文講評

私が勤務する明大の情報コミュニケーション学部は卒業論文が卒業の必須要件ではない。3・4年ゼミに所属するのも義務ではない。
だから、私の文学理論ゼミに所属する学生さんには、あらかじめ四万字以上の卒業論文が単位取得条件としてお伝えしてある。そんな過酷なゼミに入ってこようとするゼミ生さん達はガッツのある勇者なのである。
今年は2人の四年生が無事に卒業論文を書き上げた。誰に頼まれるわけでもないのだけれど、卒論ゼミ1期生の代から、卒論の講評を作成している。毎年、これがなんとも気が重い作業なのだ。なぜって、彼らの2年間を振り返り、ゼミでの発表レジュメや学期末レポート、毎月の面談での卒論アウトラインを読み直すのはなかなかに面倒くさいのです。それでも昨日から今日にかけて徹夜でなんとか書き上げて、疲労困憊している。大人数のゼミの指導教官の負担はいかばかりかと。
2019年度卒業生の川田さん、川上さん、本当によく頑張りました。卒論ゼミに入ってくれてありがとう!

花見

週末の南房総行きを断念したので、南房総の作家さん志村和晃さんと西山光太さんの作品を眺めつつ、自宅で花見。
People in Japan usually enjoy sitting under cherry blossoms in bloom and viewing them. But the governor of Tokyo City recently requested not to conduct picnics or parties outside… Then why not picnicking at home?

南房総ゼミの卒業お祝い

南房総の工房Zukoshitsuの戸田さん @zukoushitu0.9 にお願いをして、南房総のマテバシイや昨夏の台風で倒木した大房岬のソメイヨシノを使った名刺入れを作っていただく。南房総ゼミと卒論ゼミ生の卒業お祝いに。
名刺入れの輪郭のしなやかな曲線や木目が美しくてうっとりする。社会人になる彼らが、名刺入れを取り出す場面を想像しつつ、この美しい木の入れ物が彼らと新たな人々との関係を紡ぎ出してくれますようにと願う。

同級生

毎年、明大の卒業式の後は、都内某所にて昭和歌謡を歌いながら泣くというのが恒例の行事となっている。今年は卒業式が開催されなかったのだけれど、学生さん達は卒業していくので、行事はいつも通りに。今回は飲み友達の他に、大学時代の同級生が参加してくれた。
久しぶりに会うと、一気に20年前に戻ってたわいもない話をできる一方で、今の時間を生きる彼らの育児や仕事の話を聞くのも嬉しい。
ほとんど男子校だった大学でほとんど男子として生きた4年間が自分のバックボーンとなっていることを改めて実感した。
今春、学校を卒業する学生さんが、これからの人生の折々で友人達と一緒に学校生活を懐かしく思い出し、今の生活でのさまざまな思いを共有することができますように!

南房総ゼミ1期生

今日午後、突然オンライン電話が鳴って、慌てて出ると、南房総ゼミ1期生の増尾さん、舘川やん、今川さんからである。ライデン大学に留学して、1年留年した今川さんが今春卒業するのを、昨年卒業した社会人の二人がお祝いするのに南房総へ日帰り旅行を企画したのだそう。南房総ゼミでお世話になった方々の元を訪問する彼ら。私が南房総ゼミを立ち上げた時に、卒業生がいつか南房総に戻ってくれたらという祈りを込めたのが、こんな形で叶うとは。鬼の目にも涙である。南房総ゼミ生、南房総の皆さんに改めて感謝。

日本近代文学館

資料収集のために駒場の近代文学館へ。

私が通っていた頃は、それこそもう何十年も時間が止まっているような静逸な空間だったのだけれど、今は館内にCafe文壇なるスペースができて、オサレな若者が集っているとかいないとか。閲覧室には資料の目録を納めた黒光りする立派な棚が、今でも堂々と並んでいる。これらの棚の引き出しから目録カードを繰り出しては資料を探していた頃が恐ろしいほど昔であったことのようで、目眩のするような思いがする。