石井洋二郎『差異と欲望ーブルデュー『ディスタンクシオン』を読む』

 

訳あってピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を読み直している。そして、毎度のことながら、そのやっかいさに忌々しさを覚えている。
そこで、たまたまAmazonで見かけた石井洋二郎さんの『差異と欲望ーブルデュー『ディスタンクシオン』を読む』を手に入れて、合わせて読んでみたところ、するすると流れるように理解できる気がするではないか!
本書の初版は1993年。博士課程2年次で、私がちょうどブルデューの難解さに歯が立たず、絶望していた頃である。本書を導き手に読み進めていたならば、もう少しまともな博論が書けていたかもしれない。とすると、私の人生ももう少しまともになっていたということではあるまいか。
そう考えると、一冊の本が人生に与える影響はただならぬものであるという気がしてくる。
石井洋二郎さんの著作はどれもわかりやすく、美しい文章なので、とても好きなのでけれど、なぜこの本を手に取らなかっだのだろう?今この時期に出会ったことに意味があるのかもしれないと思うことにしよう。
ちなみに、東大の学位伝達式の祝辞もすてきである。
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/…/…/2013-2015/h27.3.25ishii.html

論文のデータ化

オランダにしばらく戻れないので、新しい論文を書く準備を始める。
図書館にも研究室にも行けない今、先行研究をPDFにしておかなかったら、何をしてよいか途方に暮れていたに違いない。
コロナショックを契機として、学術論文はおしなべてオンラインで手に入るようになったらよいのだけれど。

本物の不器用

甘夏チーズケーキなるものを作った。
「私、不器用ですから」と謙遜する高倉健さんに、「いやいや、私が本物の不器用ですから!」と主張したくなるほどにガサツな自分は、お菓子作りなどという繊細な作業に携わるべきではないと思ってきた。
しかし、南房総から送られてきた甘夏を食卓に置いて眺めているうちに、「私にも何か作れるかもしれない」という淡い欲望がむくむくと湧き上がってきたのだ。折しも、じろえむさんから大粒の卵が届いた。しかも、冷蔵庫には酒のつまみに常備してあるクリームチーズがある。
これは、もしかしたら、甘夏チーズケーキを作ってみよ、という不器用な神様の思し召しなのではないかと信じ込んだ私は、朝起きるなり、いそいそと甘夏の皮を剥き出した。ネットの情報を食い入るように熟読し、砂糖の分量も声に出して読み上げながら計測した。なぜなら、菓子作りは分量の正確さが命だからである。
乾物置き場の奥底から発掘された古いビスケットを細かくなるまで潰し、足りない分は、おやつ用の「きのこの山」の軸の部分を丁寧に切りとって加え、ケーキの台を作った。チーズの部分はヨーグルト、じろえむ卵、南房総の薄力粉、レモン汁、砂糖、クリームチーズを混ぜてドロドロにした。最後に、ビスケットの台の上に甘夏を並べ、チーズ液を流し込み、180度に熱したオーブンで40分焼く。
オーブンを開けて、驚いた。なんということだろう、目の前に神々しく甘夏色に輝く熱々のチーズケーキが焼き上がっているではないか!
「健さん、不器用な私にもできました!」天を仰いで呟いた。
今、艶々と光るチーズケーキを眺めながら、私は「やればできる」という陳腐な言葉を噛み締めている。ガサツで適当な私にも、ケーキが作れるのだ。私をこんな大胆な行動に駆り立てた南房総は、やはりただならぬ土地である。
もっとも、レシピに「甘夏1個」と書かれていたのを2個に増量した大胆さがどう反映されているのかはまだ確かめていないのだけれども。

(2020.4.25.)

よもぎの香り

昨晩は結局、ワインを二本程開けてしまったので、当然、今日は二日酔いである。
解決しない不安や心配で心の中がもやもやと、アルコールの取りすぎで胃の中がムカムカとしていても、腹は減る。
冷蔵庫の中で、整然と並ぶ美しいタイルのようなじろえむさんのお餅を見つけて、半分はお湯の中へ落とし、半分は焼き網に乗せる。玄米の餅は焼き餅に、よもぎと白米の餅はきな粉餅にする。
どちらももっちりと柔らかく滑らかで、アルコールで弱った胃袋を優しく包んでくれるようだ。
玄米やよもぎの濃厚な香りを嗅いでいると、立派な茅葺き屋根の門をくぐってじろえむさんのお家に辿り着いたような錯覚に襲われた。「内藤先生さあ、またなんかちまちま考えすぎてるんじゃねえか?」と、空に突き抜けるような大きな声でじろえむさんに声をかけられたような気がした。

じろえむさんについて:
https://localnippon.muji.com/2643/

甘くないファンタ

一昨日のオランダのリュッテ首相のスピーチを聞いて、膝から崩れ落ちるような気持ちになった。
三月末からコロナウィルスの感染者、重篤者、死者が着実に減少していたので、もしかしたら四月末にはロックダウンの政策が緩められるのではないかと、淡い期待を抱いていたのだ。
しかし、リュッテ首相は、初等教育の再開やスポーツの自主練習を五月始めに指示したものの、他の分野に関しては、五月二十日に改めて案内するとのこと。
日本ではどこの図書館も閉まっていることを考えると、貸し出しだけならば可能なライデン大学の図書館を利用して在外研究を続けたい気もする。
そうは言っても、現状ではオランダに親戚がいるか、オランダ国内外の物流に携わる人しか入国できないのだから、あれこれ考えるのは、意味がないのかもしれない、と行き場のない思いが頭の中を占めている。
私などの不安はちっぽけなもので、日常を奪われ、明日の生活すら継続できるのかを案じている方たちが世界中にいる。
そんな思いに囚われながら、すがるような気持ちで、南房総のキャベツ、じろえむさんの卵とマヨネーズでお好み焼きに、千倉の青木屋酒店さんで手に入れた菅谷ぶどう園の巨峰のワインを開ける。毎度のことながら、南房総の方々に身体も精神も支えられる日々である。
甘くないファンタのような紫色のぶどうの飲み物が優しく食道を流れていく。東京という消費地にかりそめにも滞在している私は、消費することしかできないのでしょうか。自分の無能さを恥じながら、紫色の泡にまみれる夜。

ポンコツ

オランダに早晩戻れるのではないかという期待が高まっている。そうなると、日本でしか堪能できないものやことを味わっておきたいという浅ましい気持ちがむくむくと湧き上がる。
そういった感傷に引きずられて、山梨のドメーヌ・ポンコツのまどぎわを開ける。
日本にいても行き場のない思いを、ふつふつと立ち上がる柔らかな泡と酸が受け止めてくれる。さすが、「ポンコツ」。さすが、「まどぎわ」である。そんな優しい味わいに包まれていると、果たしてオランダに帰ったとて、何があるというのだろうと自問しはじめ、不安の波に飲み込まれそうになる。
ふとドメーヌ・ポンコツのワインをオランダに連れ帰ったならば、しばしの心の支えにできるのかもとも思いつく。だけれど、この淡い酸はオランダの乾いた空気や湿気のフィルターを通さずに差し込んでくる陽の光の中では、弱くヘタれた味わいとして感じられるのではないかと思う。
そうなのだ。だからこそ、オランダに戻らねばと思うのだ。早く戻りたいと。日本のワインに癒される気持ちになりながらも、それだけでは満たされない強欲な自分を肯定するために。とりとめのないいくつかの自分を承認するために。まだ自分の知らない無数の他者に出会うために。そして、自分のちっぽけな価値観や前提を圧倒する他者と交わるために。
ボトルの隣には、館山の西山光太 陶芸家 西山光太​さんの器に南房総の花を活けました。

婁燁の絶望と祈り

気がつけば、中国の映画監督婁燁の作品のDVDを買い集めていた。

なぜだ、なぜなのだろう。

人々が偶然にも出会い、えも言われぬ感情に突き動かされるようにして、決して予定調和ではない、時に互いを傷つけ合うような触れ合いを繰り返し、やがて離散する。

作品の登場人物や舞台は、どれも時代も地域も言語も異なるのに、それらの作品を貫く問い、すなわち、年齢やジェンダーやセクシュアリティーや言語や階級や人種や宗教や文化や政治的環境や・・・、あらゆる違いを乗り越えたところで、目の前にいる他者とわかちあえる感情があるのかどうか。もしあるとして、それは他者を用いて自己の欲望を満たそうとする利己的な感情ではないと本当に言い切れるのか。

そうした問いが、己に湧き上がる感情が自己のためではなく、他者にも振り向けられているようにと、切なる願いのようにして、すべての作品を通底しているように思えてならない。

果たして、今後、婁燁はその問いに対して肯定的な答えを導き出すのだろうか。

そう考えると、婁燁は他者とのささやかな共感の希望を抱きながらも、個人の絶望的な孤絶を描き切っているように思えてならない。

利己的ではあるが、婁燁の作品を見直してもなお、私が今後、在外研究先のオランダに戻れたとして、そこはコロナ危機以前のオランダであるのかどうか、そんな思いが頭を離れない。

合理的で他人に関心を抱かないが故に他者の存在に寛容なオランダの人々。私はこの半年の間、彼らが築き上げてきたギリギリのジョークを交わし合うオランダの社会をこよなく愛してきたのだ。彼らが、コロナ危機以後、自分とは信条や皮膚の色や言語やセクシュアリティーとは違う他者に対して不寛容になるとしたら、それこそ絶望しかない。

 

 

 

「半透明」という体験

ライデンの家主から、”Happy Easter!”というメッセージと共に、淡いピンク色の桜が満開に咲いている庭の写真が送られてきた。
そうか、もうイースターなのだ。今日は家主家族と私とでライデンの家にそれぞれの友達を招いて寿司パーティーをするはずだった。オランダはロックダウン中だし、私はライデンに戻れないしで、結局延期になったのだ。
いつライデンに戻れるのかわからない曖昧な状況から生じる不安に苛まれる自分をひとときでも救い出してくれる本はないかと書棚を眺め、久しぶりに『イメージの根源へ』(岡田温司)を手に取った。
現実と虚構、光と影、生と死、可視と不可視、聖と俗、此岸と彼岸。こうした二項対立の概念を脱構築(対立をなし崩しにすること)するものとして、「半透明」の概念が新たに提唱される本書では、その実践例としてフェルメールの「赤い帽子の女」で採用されたハイライトの手法があげられている。
フェルメールといえば、フランドル絵画の代表的作家であり、ライデン近くのデルフトで一生を過ごしたとされる。
フェルメールに関する一節を読んでいると、オランダに行く前に本書を読んだときには感じることのなかった強烈な感情が押し寄せてきて、はからずも泣いてしまった。
在外研究中の立場では日本にいても居場所がないように感じられ、さりとてオランダに戻ることもできないという今の宙ぶらりんな状態が、まさに「半透明」という概念のありようを表しているように思えなくもない。
おそらく、この後オランダに戻ってからや、在外研究期間を終えて日本に完全に帰国してからでは感じることのできない感覚を以って、私は今この本を読み、フェルメールについて考えているのだろう。今ここでしか体験できない感情や思考が生じているということなのだ。ならば、そうした感情や思考に耳を澄ませてみるしか、今できることは他にないのかもしれない。
「半透明」とは響きこそ甘美であるけれども、半透明の感情のあわいを定めなく心が移ろいゆくのは、内出血をした時のような、じんじんとする痛みを伴う出来事なのだ。とはいえ、そうした痛みを感じる体験こそ、今ここの現実から逃れ、小説や映画、絵画などの虚構に向き合う所作に他ならないとも思う。

砂の女

毎日、オランダの新聞を読んでは、コロナ感染の状況を確認している。今週ようやく入院患者数が増加しなくなったのだけれど、それでも昨日(4/8)だけでオランダ国内では147名が亡くなり、403名が入院した。
家主家族や友人たちの話を聞く限り、ライデンの人々はロックダウンを受け入れて在宅での生活を続けている様子。彼らに「早く戻っておいで」と言われる度に、どうしたものかと悩む。
今回はたまたま出張ベースの帰国で東京に来ていたため、当初はオランダに予定通りに戻れないことにイライラが募った。でも、日本の状況も深刻化するのにつれ、東京にいる家人のことが心配にもなり、帰国予定日のだった4月5日にはもう観念して、しばらく東京にいることを受け入れていた。
そうこうするうちに、まもなく4週間が経つ。世界中で自分の家や仕事場、愛する人の元へと戻りたいのに戻れないという状況に置かれている人たちがたくさんいるのではないかと想像する。
そんな時にふと、安部公房の小説『砂の女』を思い出した。旅先で砂丘の奥底に住む女に虜にされた男が、当初はそこから逃れようとあれこれと試みるのだが、いつしかその状況を受け入れていくという話である。物語の最後に、女は子宮外妊娠で危篤状態となり 、穴から出る。砂の穴から抜け出せる好機が巡ってきたのにもかかわらず、男は穴に留まり、ぼんやりと砂を掻き続けるのだ。
「そもそも、なぜ、私はライデンに帰りたいのだろう。今いる東京に家があるというのに・・・。」そんなことを思い始めている私は、砂の女に虜にされた男と同じ運命を辿っているのかもしれない。
(『砂の女』は原作の小説も面白いけれど、勅使河原宏監督による映画も非常によい。岸田今日子の怪演が素晴らしい。とても好きな映画なのだけれど、今は観ないでおいた方がよいだろう。)