「半透明」という体験

ライデンの家主から、”Happy Easter!”というメッセージと共に、淡いピンク色の桜が満開に咲いている庭の写真が送られてきた。
そうか、もうイースターなのだ。今日は家主家族と私とでライデンの家にそれぞれの友達を招いて寿司パーティーをするはずだった。オランダはロックダウン中だし、私はライデンに戻れないしで、結局延期になったのだ。
いつライデンに戻れるのかわからない曖昧な状況から生じる不安に苛まれる自分をひとときでも救い出してくれる本はないかと書棚を眺め、久しぶりに『イメージの根源へ』(岡田温司)を手に取った。
現実と虚構、光と影、生と死、可視と不可視、聖と俗、此岸と彼岸。こうした二項対立の概念を脱構築(対立をなし崩しにすること)するものとして、「半透明」の概念が新たに提唱される本書では、その実践例としてフェルメールの「赤い帽子の女」で採用されたハイライトの手法があげられている。
フェルメールといえば、フランドル絵画の代表的作家であり、ライデン近くのデルフトで一生を過ごしたとされる。
フェルメールに関する一節を読んでいると、オランダに行く前に本書を読んだときには感じることのなかった強烈な感情が押し寄せてきて、はからずも泣いてしまった。
在外研究中の立場では日本にいても居場所がないように感じられ、さりとてオランダに戻ることもできないという今の宙ぶらりんな状態が、まさに「半透明」という概念のありようを表しているように思えなくもない。
おそらく、この後オランダに戻ってからや、在外研究期間を終えて日本に完全に帰国してからでは感じることのできない感覚を以って、私は今この本を読み、フェルメールについて考えているのだろう。今ここでしか体験できない感情や思考が生じているということなのだ。ならば、そうした感情や思考に耳を澄ませてみるしか、今できることは他にないのかもしれない。
「半透明」とは響きこそ甘美であるけれども、半透明の感情のあわいを定めなく心が移ろいゆくのは、内出血をした時のような、じんじんとする痛みを伴う出来事なのだ。とはいえ、そうした痛みを感じる体験こそ、今ここの現実から逃れ、小説や映画、絵画などの虚構に向き合う所作に他ならないとも思う。

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