ポンコツ

オランダに早晩戻れるのではないかという期待が高まっている。そうなると、日本でしか堪能できないものやことを味わっておきたいという浅ましい気持ちがむくむくと湧き上がる。
そういった感傷に引きずられて、山梨のドメーヌ・ポンコツのまどぎわを開ける。
日本にいても行き場のない思いを、ふつふつと立ち上がる柔らかな泡と酸が受け止めてくれる。さすが、「ポンコツ」。さすが、「まどぎわ」である。そんな優しい味わいに包まれていると、果たしてオランダに帰ったとて、何があるというのだろうと自問しはじめ、不安の波に飲み込まれそうになる。
ふとドメーヌ・ポンコツのワインをオランダに連れ帰ったならば、しばしの心の支えにできるのかもとも思いつく。だけれど、この淡い酸はオランダの乾いた空気や湿気のフィルターを通さずに差し込んでくる陽の光の中では、弱くヘタれた味わいとして感じられるのではないかと思う。
そうなのだ。だからこそ、オランダに戻らねばと思うのだ。早く戻りたいと。日本のワインに癒される気持ちになりながらも、それだけでは満たされない強欲な自分を肯定するために。とりとめのないいくつかの自分を承認するために。まだ自分の知らない無数の他者に出会うために。そして、自分のちっぽけな価値観や前提を圧倒する他者と交わるために。
ボトルの隣には、館山の西山光太 陶芸家 西山光太​さんの器に南房総の花を活けました。

婁燁の絶望と祈り

気がつけば、中国の映画監督婁燁の作品のDVDを買い集めていた。

なぜだ、なぜなのだろう。

人々が偶然にも出会い、えも言われぬ感情に突き動かされるようにして、決して予定調和ではない、時に互いを傷つけ合うような触れ合いを繰り返し、やがて離散する。

作品の登場人物や舞台は、どれも時代も地域も言語も異なるのに、それらの作品を貫く問い、すなわち、年齢やジェンダーやセクシュアリティーや言語や階級や人種や宗教や文化や政治的環境や・・・、あらゆる違いを乗り越えたところで、目の前にいる他者とわかちあえる感情があるのかどうか。もしあるとして、それは他者を用いて自己の欲望を満たそうとする利己的な感情ではないと本当に言い切れるのか。

そうした問いが、己に湧き上がる感情が自己のためではなく、他者にも振り向けられているようにと、切なる願いのようにして、すべての作品を通底しているように思えてならない。

果たして、今後、婁燁はその問いに対して肯定的な答えを導き出すのだろうか。

そう考えると、婁燁は他者とのささやかな共感の希望を抱きながらも、個人の絶望的な孤絶を描き切っているように思えてならない。

利己的ではあるが、婁燁の作品を見直してもなお、私が今後、在外研究先のオランダに戻れたとして、そこはコロナ危機以前のオランダであるのかどうか、そんな思いが頭を離れない。

合理的で他人に関心を抱かないが故に他者の存在に寛容なオランダの人々。私はこの半年の間、彼らが築き上げてきたギリギリのジョークを交わし合うオランダの社会をこよなく愛してきたのだ。彼らが、コロナ危機以後、自分とは信条や皮膚の色や言語やセクシュアリティーとは違う他者に対して不寛容になるとしたら、それこそ絶望しかない。

 

 

 

「半透明」という体験

ライデンの家主から、”Happy Easter!”というメッセージと共に、淡いピンク色の桜が満開に咲いている庭の写真が送られてきた。
そうか、もうイースターなのだ。今日は家主家族と私とでライデンの家にそれぞれの友達を招いて寿司パーティーをするはずだった。オランダはロックダウン中だし、私はライデンに戻れないしで、結局延期になったのだ。
いつライデンに戻れるのかわからない曖昧な状況から生じる不安に苛まれる自分をひとときでも救い出してくれる本はないかと書棚を眺め、久しぶりに『イメージの根源へ』(岡田温司)を手に取った。
現実と虚構、光と影、生と死、可視と不可視、聖と俗、此岸と彼岸。こうした二項対立の概念を脱構築(対立をなし崩しにすること)するものとして、「半透明」の概念が新たに提唱される本書では、その実践例としてフェルメールの「赤い帽子の女」で採用されたハイライトの手法があげられている。
フェルメールといえば、フランドル絵画の代表的作家であり、ライデン近くのデルフトで一生を過ごしたとされる。
フェルメールに関する一節を読んでいると、オランダに行く前に本書を読んだときには感じることのなかった強烈な感情が押し寄せてきて、はからずも泣いてしまった。
在外研究中の立場では日本にいても居場所がないように感じられ、さりとてオランダに戻ることもできないという今の宙ぶらりんな状態が、まさに「半透明」という概念のありようを表しているように思えなくもない。
おそらく、この後オランダに戻ってからや、在外研究期間を終えて日本に完全に帰国してからでは感じることのできない感覚を以って、私は今この本を読み、フェルメールについて考えているのだろう。今ここでしか体験できない感情や思考が生じているということなのだ。ならば、そうした感情や思考に耳を澄ませてみるしか、今できることは他にないのかもしれない。
「半透明」とは響きこそ甘美であるけれども、半透明の感情のあわいを定めなく心が移ろいゆくのは、内出血をした時のような、じんじんとする痛みを伴う出来事なのだ。とはいえ、そうした痛みを感じる体験こそ、今ここの現実から逃れ、小説や映画、絵画などの虚構に向き合う所作に他ならないとも思う。

砂の女

毎日、オランダの新聞を読んでは、コロナ感染の状況を確認している。今週ようやく入院患者数が増加しなくなったのだけれど、それでも昨日(4/8)だけでオランダ国内では147名が亡くなり、403名が入院した。
家主家族や友人たちの話を聞く限り、ライデンの人々はロックダウンを受け入れて在宅での生活を続けている様子。彼らに「早く戻っておいで」と言われる度に、どうしたものかと悩む。
今回はたまたま出張ベースの帰国で東京に来ていたため、当初はオランダに予定通りに戻れないことにイライラが募った。でも、日本の状況も深刻化するのにつれ、東京にいる家人のことが心配にもなり、帰国予定日のだった4月5日にはもう観念して、しばらく東京にいることを受け入れていた。
そうこうするうちに、まもなく4週間が経つ。世界中で自分の家や仕事場、愛する人の元へと戻りたいのに戻れないという状況に置かれている人たちがたくさんいるのではないかと想像する。
そんな時にふと、安部公房の小説『砂の女』を思い出した。旅先で砂丘の奥底に住む女に虜にされた男が、当初はそこから逃れようとあれこれと試みるのだが、いつしかその状況を受け入れていくという話である。物語の最後に、女は子宮外妊娠で危篤状態となり 、穴から出る。砂の穴から抜け出せる好機が巡ってきたのにもかかわらず、男は穴に留まり、ぼんやりと砂を掻き続けるのだ。
「そもそも、なぜ、私はライデンに帰りたいのだろう。今いる東京に家があるというのに・・・。」そんなことを思い始めている私は、砂の女に虜にされた男と同じ運命を辿っているのかもしれない。
(『砂の女』は原作の小説も面白いけれど、勅使河原宏監督による映画も非常によい。岸田今日子の怪演が素晴らしい。とても好きな映画なのだけれど、今は観ないでおいた方がよいだろう。)

卒業論文発表会

週末、卒論ゼミの卒論発表会をオンラインにて開催。
当初は南房総にて合宿形式で行う予定だったのが、コロナウィルスの影響で急遽変更することに。
四年ゼミ生2人の発表に対して、卒業生7人と社会人3人が参加してくださるという贅沢な時間になる。
初めてのオンライン発表会でうまく行くのか心配もあったのだけれど、気がつけば5時間近くも活発なやり取りがなされて、濃密な議論の時間に。
対面式の集まりでは気づけない発見もあった。他者が実際に目の前にいると、その存在をつい当然のことだと思ってしまう。これがオンラインだと、音や回線が途切れたりして、いつ何時相手との交流が途絶えるのか分からず、不安な気持ちになる。でも、そのことで、他者はいつも当たり前のように存在しているわけではなく、ある日突然いなくなることもあるということ、すなわち、他者存在の不確からしさを実感できるのではないかと思った。次の瞬間に消えてしまうかもしれない相手に向き合い、その気配を感じようと、五感を働かせて相手を思いやり、その安否を気遣うのだ。
何もかもが不安定に見える今の状況の中で、他者への淡い気遣いに満ちた貴重な時間だったように思う。

 

卒業論文講評

私が勤務する明大の情報コミュニケーション学部は卒業論文が卒業の必須要件ではない。3・4年ゼミに所属するのも義務ではない。
だから、私の文学理論ゼミに所属する学生さんには、あらかじめ四万字以上の卒業論文が単位取得条件としてお伝えしてある。そんな過酷なゼミに入ってこようとするゼミ生さん達はガッツのある勇者なのである。
今年は2人の四年生が無事に卒業論文を書き上げた。誰に頼まれるわけでもないのだけれど、卒論ゼミ1期生の代から、卒論の講評を作成している。毎年、これがなんとも気が重い作業なのだ。なぜって、彼らの2年間を振り返り、ゼミでの発表レジュメや学期末レポート、毎月の面談での卒論アウトラインを読み直すのはなかなかに面倒くさいのです。それでも昨日から今日にかけて徹夜でなんとか書き上げて、疲労困憊している。大人数のゼミの指導教官の負担はいかばかりかと。
2019年度卒業生の川田さん、川上さん、本当によく頑張りました。卒論ゼミに入ってくれてありがとう!

花見

週末の南房総行きを断念したので、南房総の作家さん志村和晃さんと西山光太さんの作品を眺めつつ、自宅で花見。
People in Japan usually enjoy sitting under cherry blossoms in bloom and viewing them. But the governor of Tokyo City recently requested not to conduct picnics or parties outside… Then why not picnicking at home?

南房総ゼミの卒業お祝い

南房総の工房Zukoshitsuの戸田さん @zukoushitu0.9 にお願いをして、南房総のマテバシイや昨夏の台風で倒木した大房岬のソメイヨシノを使った名刺入れを作っていただく。南房総ゼミと卒論ゼミ生の卒業お祝いに。
名刺入れの輪郭のしなやかな曲線や木目が美しくてうっとりする。社会人になる彼らが、名刺入れを取り出す場面を想像しつつ、この美しい木の入れ物が彼らと新たな人々との関係を紡ぎ出してくれますようにと願う。

同級生

毎年、明大の卒業式の後は、都内某所にて昭和歌謡を歌いながら泣くというのが恒例の行事となっている。今年は卒業式が開催されなかったのだけれど、学生さん達は卒業していくので、行事はいつも通りに。今回は飲み友達の他に、大学時代の同級生が参加してくれた。
久しぶりに会うと、一気に20年前に戻ってたわいもない話をできる一方で、今の時間を生きる彼らの育児や仕事の話を聞くのも嬉しい。
ほとんど男子校だった大学でほとんど男子として生きた4年間が自分のバックボーンとなっていることを改めて実感した。
今春、学校を卒業する学生さんが、これからの人生の折々で友人達と一緒に学校生活を懐かしく思い出し、今の生活でのさまざまな思いを共有することができますように!