この数ヶ月、私は「老い」について考えている。つまりは、老化である。そう、老化に夢中なのだ。
足腰の筋肉の伸び縮みが長距離の移動に耐えられなくなったとか、尿意を催す頻度が格段に高くなったとか、そういう肉体の老化の諸々の現象について事細かく語り合うことは、己の肉体の各所の不備をいかに諧謔的に語れるのかという、もはや話芸の首尾、不首尾の域において一喜一憂するべき事柄になっている。
が、しかしだ。自分の身体の状態を含めた自己認識として女であるのか男であるのかという性自認の問題と同時に、他人から見てどうであるのかという他者認識の問題にかかると、事はそんなにおもしろおかしくもなくなってくるのである。
ふと思う。自分が男であると確信している人物は、老化によって、そうした自分の性自認が揺らぐことがあるのだろうかと。どうなのだろう。どうなのですか?教えてください。
つまりは、そうした性自認や他者認識という厄介な事柄は、老化という現象と切っても切り離せない問題であることに、私は遅まきながら数ヶ月前に気づいてしまい、愕然としたのだ。
紆余曲折を経て、私は、自分が女であるという性自認を得た、というか、最近になってそういう考えに至った。そういう出来立てホヤホヤの自覚が、老化という自分ではどうすることもできない現象によって脅かされているのである。これは大ごとなのだ。
私自身は、少なくとも「女」という語彙が恒久的なものではなく、「女」だと言われている存在が、そうした属性をつなぎ目としてそれほど簡単に一体感を持ち得ることはないと思っている。だとしたら、私にとって「女」という属性、記号は、どんな意味を持っているのだろう。
老いるとともに悩みは深まるばかりである。