貴重だけれども、予断を許さない隣人

19時から23時。

当初は2時間の予定だったのだが、予想通りというべきか、4時間経っても、ちっともそんな感じはしないのだった。

今晩は「女傑」と私が勝手に呼んでいる飲み仲間たちとオンラインで酒を酌み交わした。彼らの多くは、虎ノ門にあるblancというビストロでたまたま隣り合わせたりして知り合った人々である。

「女傑」というからには、性自認として「女」であり、他者から見て「傑士」である人物たちである。そうした共通点がありながらも、年齢も職業も業種も出身地も生い立ちも異なる人々が定期的に集まるようになって2年近くになるのだろうか。コロナ危機でオンラインによる会合の機会が生み出されるようになると、1週間に1度の頻度で集うようになった。

「それほどに頻繁に接触の機会のある彼らは、自分にとって友達だろうか?」

そんな思春期の悩みのような問いを自分に投げかけてみると、「ううむ」と返事に窮してしまう。なぜなら、「友達」という名前で呼び表せる人間関係は、20代の後半までに作り終えてしまった気がするからだ。それでは、「友達」とは一体、どんな存在なのだろう。

悲しいかな、その思春期的問いに思い悩むことはもうない。はっきりと言える。私にとって「友達」とは、幼稚園にせよ、小学校にせよ、中学にせよ、どのような高等教育機関にせよ、「学生時代」という、無限とも思える長大な時間を過ごすことで育まれる人間関係のことをいう。そうした時間の中で友達に対して愚かな振る舞いもすることもあるし、赤裸々に物事を語ったりすることもあるだろう。

だからこそ、「友達は尊い」と言われるのだ。社会に出てからそんなあられもない自分を曝け出せる人間関係を作ることは難しいのだから。

でも、そういう言葉を耳にする度に、私は「あれ?」と思う。

自分を曝け出すことはそんなに素敵で貴重なことなのだろうか。そもそも、「自分を曝け出す」とはいかなる行為なのだろう。

そんな問いが自分の頭の中を駆け巡る時、いつも思い出される出来事がある。

私が初めて受け持った卒論ゼミの1期生のひとりが、卒業にあたって2年間共に過ごした同期のゼミ生たちとの築き上げてきた関係を、「貴重だけれども、予断を許さない」間柄だと言い表したのだ。

私の卒論ゼミは、悪評の立つほど課題が難しく、多い。毎週それらをこなし、卒業論文を書き上げるまでの2年間に、ゼミ生たちは何度となく悔し涙を流している。そのような過酷な二年間を手と手を取り合って乗り越えてきた同期ゼミ生たちの間には、さぞかし固い友情が結ばれているだろうと想定していた私が浅はかだった。

そのゼミ生は、過酷な状況下で他者にあられもない自分を曝け出すことが必ずしもその人物との友情を育むことにはならないと述べていたのだ。何という思慮深さだろう。

それでは彼らはどのような人間関係を築いていたのだろう。当該学生に同期のゼミ生は友達であるかと問うたところ、友達とは違いますという答えがすぐに返ってきた。では、どんな関係なのかと言われると、形容し難いとも言う。

そうなのだ。現代の日本語表現には、この学生が表現しようとする人間関係を意味する語彙が存在しない。親子、幼なじみ、友達、親友、旧友、同志、知り合い、知人、隣人、同僚、恋人、夫婦。こうした既知の語彙の中に、そのゼミ生が意図した人間関係を言い表す言葉はない。

今ならば、私にも彼女の言いたかったことがよくわかる。なぜなら、女傑たちとの関係性はまさに「貴重だけれども、予断を許さない」ものだからだ。

社会で活躍している女傑たちはいつも仕事で忙しい。だから、この集いに彼らがいつ何時来られなくなるのかは、まさに「予断を許さない」。そう考えると、次にいつ集まれるのかわからないからこそ、共に過ごす時間が「貴重」に思えてならないのだ。そんなことを、私は学生時代に自分の友達との関係において感じたことがあっただろうか。我がことながら、つくづく浅はかである。

とはいえ、「貴重だけれども、予断を許さない」人間関係を表現する日本語が依然として存在していないことに変わりはない。

ひょっとしたら、日本社会では女性(もしかしたら男性も)の人生は、「親子→幼なじみ→友達→(知人・同僚→)恋人→夫婦→親子」という人間関係の表現だけで言い表せると考えられてきたのではないだろうか。言い換えるならば、女の一生は「子供→学生→社会人→恋人→妻→母」という属性を辿るというのが一般的だった(もしくは今もそうな)のだろう。

だから、そうした道筋から外れたり、これらとは異なる人間関係や属性を新たに作り上げた人には、自分の人生の軌跡を説明するために必要な言葉のピースが足りないと感じられるのではないだろうか。

かく言う私も、こうした人生の王道からいくつかの点で逸脱している。それゆえに自分の人生を語るのに言葉の不自由を感じている。そればかりではなく、既存の言葉で言い表されうるはずの自分の他者との人間関係をも、何だかしっくりこないような気がするのだ。

それならば、これまでには存在しなかった言葉を作ればよいではないか。それが気恥ずかしければ、使い古した言葉に新たな意味を吹き込んでもよい。

女傑たちが毎回集う度に紡いでいる人間関係。親子や友達、同僚、恋人、夫婦といった既存の関係をも新たな眼差しで捉え直す契機となるようなこの関係性。いまだ語られていない新たな、でも、すでに築き上げられつつあるこうした関係を何と言い表したらよいのだろう。

「貴重だけれども、予断を許さない隣人」。

仮にこのように表現してみる。隣人を貴重だとか、予断を許さないとかと思うことはあまりないはずだ。だからこそ、そう考えてみたらどうだろう。

生活を共にしているわけではなく、時々出会うような隣人だからこそ、一緒に時間を過ごすようなことがあれば、あられもなく自己開示をするわけではなく、未知なる相手の語ることに慎重に耳を傾け、その存在に敬意を払うことだろう。もちろん、その隣人が困っていたら、駆けつけるはずだ。

このご時世だからこそ、インターネットという網目を通して隣人は存在しうる。そんなあえかな人間関係の糸を縦横に張り巡らして、自分の人生は紡ぎ出されているのだ。

 

 

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