婁燁の絶望と祈り

気がつけば、中国の映画監督婁燁の作品のDVDを買い集めていた。

なぜだ、なぜなのだろう。

人々が偶然にも出会い、えも言われぬ感情に突き動かされるようにして、決して予定調和ではない、時に互いを傷つけ合うような触れ合いを繰り返し、やがて離散する。

作品の登場人物や舞台は、どれも時代も地域も言語も異なるのに、それらの作品を貫く問い、すなわち、年齢やジェンダーやセクシュアリティーや言語や階級や人種や宗教や文化や政治的環境や・・・、あらゆる違いを乗り越えたところで、目の前にいる他者とわかちあえる感情があるのかどうか。もしあるとして、それは他者を用いて自己の欲望を満たそうとする利己的な感情ではないと本当に言い切れるのか。

そうした問いが、己に湧き上がる感情が自己のためではなく、他者にも振り向けられているようにと、切なる願いのようにして、すべての作品を通底しているように思えてならない。

果たして、今後、婁燁はその問いに対して肯定的な答えを導き出すのだろうか。

そう考えると、婁燁は他者とのささやかな共感の希望を抱きながらも、個人の絶望的な孤絶を描き切っているように思えてならない。

利己的ではあるが、婁燁の作品を見直してもなお、私が今後、在外研究先のオランダに戻れたとして、そこはコロナ危機以前のオランダであるのかどうか、そんな思いが頭を離れない。

合理的で他人に関心を抱かないが故に他者の存在に寛容なオランダの人々。私はこの半年の間、彼らが築き上げてきたギリギリのジョークを交わし合うオランダの社会をこよなく愛してきたのだ。彼らが、コロナ危機以後、自分とは信条や皮膚の色や言語やセクシュアリティーとは違う他者に対して不寛容になるとしたら、それこそ絶望しかない。

 

 

 

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